お知らせ
本校史年表 (二期)
  本校史◆70・80・90周年記念誌  
◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞)
●稚松会だより
社会の動き
      
大正12 ・福島県立白河高等女学校と改称◇大正13年、県立白高女となり制服が決まった。冬物は薄い黄色に黒のシマ、夏物は水色と白のシマ。茶色のハカマに三本線の入ったバンドがシンボルだった。ところが生徒たちには重い布地とフトン柄のような制服はあまり評判はよくなかった。この制服を着て関西へ修学旅行に行った生徒が「どこから来た女工さん」と言われたことに乙女心が爆発。帰校後、制服の洋装化を訴えて全校生徒が校長に嘆願書を出した。関東大震災
    白河町三十三間17番地(現旭町1丁目3番地)の新校舎(校地約1万坪/校舎建坪約千坪)に移転。 
    修業年限4年、生徒定員400名。 
     
 13 ・寄宿舎も三十三間の新寄宿舎に移転。寄宿生30名。◇新校舎の棟続きに寄宿舎が完成したのは大正12年。内部は舎監室、休憩室のほか18の和室という小ぢんまりしたもの。同寄宿舎は昭和27年に廃止されるまで、ざっと千人が入舎した。 
     
    ◇寄宿舎風景・・・一部屋が八畳二間で10人が寝起きした。机とふとんを持ち込み、上級生と下級生が姉妹同然に過ごした。4年生が室長で、1年生は入舎すると、各室で怪談を聞かされて脅かされた。学校の敷地は墓場の跡で、三角頭のお化けが出る・・・という話しに、純情な乙女たちはトイレに行けずに、連れ添って行った。放課後の外出希望者は行き先と目的を”外出帳”に記して街に出た。門限5時。家に帰る以外は外泊は許されなかった。寄宿舎は学校敷地内いあったため、一般生徒は放課後立ち寄って談笑を楽しんだという。 
    
 14 ・各学年修学旅行 
 4年京阪地方(6日)/3年松島地方/2年会津地方/1年塩原(1日)
治安維持法公布
   普通選挙法公布
    
     
 15 ・第1回音楽会開催。以降学校行事となる。◆(校舎が現在地に移った年に入学)「授業らしい授業は殆どなく、毎日全校生徒は一列に並ばされて、人参の根っこだの、大根の根っこだのをとって、そんな作業のあけくれでした。何しろ校庭は、畑の跡地でしたから。始めのうちは授業がなくてとっても嬉しかったのですけど、来る日も来る日も校庭の整備で、しまいにはバテましたね。」西岡孝(昭3卒)金融恐慌
    大正天皇没
     
    
 1  ◆「あれは双葉山かな。おすもうさんを呼んで、地ならしをやったのを覚えています。」大森テイ(大14卒) 
     
    ◆「私の修学旅行の時は、着物と洋服が半々でした。1年から学年別々で旅行がありました。1年が塩原、2年が東山、3年は松島、4年が関西。」西岡孝 
     
 2  ◆「当時(の部活動)はテニスしかなかったので、私もテニスをやりました。学校でお金を下さらないから、自費でどこでも試合にいっちゃったんです。」西岡孝東方会議
    第1回普通選挙
      
  本校史◆70・80・90周年記念誌  
◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞)
○会誌
●稚松会だより
社会の動き
     
昭和3  ◇昭和4年、冬服は背広型に学年別のネクタイ、夏服は白のセーター服と制定された。「黒クツ下に黒グツ。髪は結ぶかおさげに制定されたが、統一されて味気なかった」鈴木千代子(昭4卒)という。入学と同時にネクタイを縫わされた背広型も真ん中にバンドが入ってバックルがあり、バスガールのような制服と不評だったようだ。 
     
     
    ◆「寄宿舎は、三棟になって建ててあり、一寮、二寮、三寮とよんでました。各室には炊事場がついていて、洗い場と水がめ、戸棚が洗い場の上についているだけ。井戸から水を運ぶ大きなバケツが2個ありました。また部屋の中には机の本箱もあります。各室は10人から11人で、室は8畳2間で狭いため、ふとんなどは重ね敷きでした。」飯田カツ子(昭5卒) 
 4 ・第1回体育デーとして各種競技会が開催。以降学校行となる。世界恐慌始まる
     
     
    ◆「寄宿生活の日課を思い出しますと、まず6時、寒い時も暑い時も起床です。ふとんを押入れに整理し、みんなで掃除、雑巾がけをすませて、7時に食事、お弁当もつめます。制服に着替えて7時登校です。授業が終わると各自室に戻ります。夕方は、6時が食事、片づけてお風呂に行きます。7時から2時間は、復習、予習です。9時に鈴がなって勉強終了。各寮人員点呼して人数を報告、ふとん敷きしてお手洗いと賑やかなことです。9時半には消灯です。」飯田カツ子(昭5卒) 
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 6  ◆「運動会では、仮装行列をやりました。」中村雪子(昭4卒)満州事変
    ○運動会(昭和5年10月) 種目抜粋
 綱引 / 150M走 / 一人一脚 / 椅子占り / スローアンドキャッチボール/昆虫採集 / カマリンスカイヤ / 縄跳び / 重心 / スクエアスプレー / 十字行進 / 五種競技 / 蟹競争 / ボール打ち / スキー競争 / ボトトレース / ユーモレスク・モーマンミュージコー / ルシアンコザックダンス
 
     
     
 7  五・一五事件
    ◆「運動会ではグランドピアノを校庭の真ん中に持ち出して、ピアノの伴奏でダンスをやりました。」木村シン(昭6卒) 
     
    ◆「私が4年生ぐらいの時、初めてバレー部ができたのです。合宿では、毎日毎日、鼻の頭の皮が日に焼けて、何回もむける程練習をしました。」木村シン(昭6卒) 
 8 ・購買部開設国際連盟脱退
     
      
      
  本校史◆70・80・90周年記念誌  
◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) 
社会の動き
    
 9 ・創立20周年記念式典挙行◆「音楽会には淡谷のり子、関種子、奥田良三、四家文子、藤原義江など一流の人が来ました。」加藤静代(昭9卒) 
  ・夏帽、徽章、学年別ネクタイ、作業服の制定 
   ◆「当時の寄宿舎は、北寮、中寮、南寮と呼んでいました。生徒は、中寮と南寮とに5部屋ずつ、一部屋に4~5人で、全部で60人くらいおりました。玄関の脇に舎監室、食堂と炊事場がありました。外出すると門限は9時、きびしかったですよ。家には月2回ぐらい泊まりに行けました。冬はスキーによく行きました。なべ釜1つで4年間いましたから、寄宿舎っていうと特別の姉妹みたいな感覚です。」富山タイ(昭11卒) 
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 11  二・二六事件
   ◆「私達の時代の制服は、ジャンパースカートとジャケットでした。学年ごとに色別のネクタイで・・。ブラウスとネクタイは家庭科の教材で作りました。ネクタイの色は、1年は赤、2年はブルー、3年は緑で4年がベージュ。体操の時には、ヒダのたくさんはいった黒のブルマー、白の運動シャツで。」鈴木政(昭14卒) 
    
 12  日中戦争始まる
     
   ◆「高校生活では礼儀や規律は徹底して守られていました。生徒は教師に対する尊敬の念が強く、一方非常に親近感が持てるという関係であったと思います。上級生と下級生のあいさつ等、忘れたりすると気合いを入れられることも覚えています。私はバレー部でしたが、放課後の練習が楽しみでした。毎日遅くなるまで練習し、からたちの垣根のそばで大の字になって空を仰ぎながら友と語るひと時、そして県大会で勝つことができなかったくやし涙の思い出もよみがえってきます。」角田ミヨ(昭13卒) 
 13  国家総動員法公布
    
    
 14 ・1学年150名となり、生徒定員600名となる。第二次世界大戦
勃発
   ◆「勤労奉仕では、郡馬補充部の畑の草取りに行くとき、トラックの荷台に分割して乗り、町中を車と共に揺られながら、カーブの時など振り落とされないよう、お互いにしがみつきながら畑に行きました。作業が終わった時に頂く黒パンのおいしかったこと。」上遠野アイ(昭16卒) 
    
 15  日独伊三国同盟締結
  ◆入学試験の筆記試験はなくなり、口答試問と体力試験により合格を決定した。正規の授業は行われず、学友会は修練隊と改称して戦争に協力し労力不足を補う為、出兵遺家族の勤労奉仕、空閑地耕作、軍馬補充部、種畜牧場の作業、学校用燃料採集等に従事した。(70年のあゆみ) 
    
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   ◆「入学試験の時に、筆記試験がなくなって口答試問と体力検査になり、廊下を砂袋を持って走らされた記憶があります。」川瀬春子(昭20卒)国民学校令公布
    ハワイ・真珠湾
奇襲攻撃
  本校史◆70・80・90周年記念誌  
◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) 
社会の動き
     
   ◇勤労奉仕は、主要国道県道に砂利置場を設けるため砂利採取、運搬作業で始まった。阿武隈川の河原から砂利を取り、約1200メートルを荷車や風呂敷包みにして運ぶ作業はかなりの重労働だった。 
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  ◆「射撃訓練もやりました。とにかく勤労奉仕が多く、敵国語である英語の授業はあまりやらないで、別な授業をした記憶があります。」長尾モン(昭17卒) 
    
   ◇「防空壕堀りもしました。カラタチの土手の周りに数カ所にわたって設置しました。全校生徒600人が1人ももれなく退避できるよう連日訓練が行われました。」片野タカ子(昭19卒) 
 18 大東亜会議
   ◇「稲刈りの手伝いに銀シャリのおにぎりが出され、なんともおいしかった記憶が今でも鮮明に残っています。昼休みにはイナゴ取りもしましたし、合唱もしました。」吉川久子(昭19卒)学徒出陣
    
   ◆「私達4年生の時に戦争が激しくなり、学徒動員令が下りまして、確か夜中の11時すぎに校庭にならんで、涙ながらに別れを告げて、町中を歌いながら駅へ向かいました。配属先は神奈川県の川崎市で、東芝の通信機製作に従事しました。」根本信子(昭20卒) 
 19・国家総動員法により、3年生は保土ヶ谷化学郡山工場に、四年生は川崎市の東芝小向工場に配属される。学童集団疎開はじまる
  東京大空襲
   ◇昭和20年4月12日、直撃弾、爆風などで(保土ヶ谷化学郡山)工場内は次々と犠牲者が続出した。「逃げたが、白女の防空壕に到着しないうちにB29の爆撃が始まった。急いで近くの防空壕に飛び込んだ。壕内は超満員だった。まるで重ねモチだった。身体全体が押しつぶされ、身動きひとつできなかった。失神しそうだった。遠くで女子学生が、”あたしの隣の人が死んでいるわ。あたしを防空壕に入れて”と叫んでいる声が聞こえたが、どうすることもできない。(中略)いつの間にか防空壕の外に弾き出されていた。逃げようと思うばかりで手足はシビレたまま。イザリのようにして前へ進む。ようやく血が通いはじめ、走って逃げ出した。気がついたときは、阿武隈川対岸の村でした。」大橋クニ(昭21卒) 
    
 20・米軍機の爆撃を受け、郡山工場で14名が犠牲者となる。米軍 沖縄に上陸
   
    
   広島・長崎に
原爆投下
  ・白女生が勤労奉仕する川崎市東芝小向工場が空襲にあう。◇昭和20年4月15日、午後十時過ぎ、川崎大空襲。「防空壕に避難したが、”多摩川へ逃げろ””壕から出ろ”の声にあちこちから逃げ出した。私は足が震えて前にでない。やっとの思いで川べりに出る。対岸も後ろの工場も火の海。轟音がやんでから友を探す。”白女”と叫び合いながら、夜の白むころ全員が無事集合した。」郡司重子(昭20卒)ポツダム宣言受諾
   
   第二次世界大戦
終戦
 21 日本国憲法公布
  ・修業年限5年の高等女学校として許可され、同時に併設中学校を設置し、第三学年以下の在学生をこれに所属させる。  
 22 教育基本法・学校教育法公布
6/3/3/制開始
   ・PTA誕生