本校史年表 (一期) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 *会員名簿 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) | 社会の動き | |||
大正 | 3 | ・白河第二尋常小学校長加藤友之助氏 修業年限2年の実科高等女学校を第二小学校に附設する件の草案を町長に提出。 | 第一次世界大戦 勃発 | ||
・白河町会に提出された設立の案件を満場一致で原案可決 | |||||
*【稚松会名の由来】大正3年、本校の前身であった白河実科高等女学校が創立された年、在校生の親睦会に初代校長であった加藤友之助先生が下記の歌から稚松会という名称をつけられました。 卒業生の少なかった間は在校生との連合で親睦会を催していたが、しだいに卒業生の数も増え同窓会が分離してからも引き続きこの名称がよびならわされ、今日に及びました。 国文学に造詣の深い加藤友之助先生が、白河城主松平楽翁公の御歌の 稚松原 朝夕つゆの やしのうも 国をぞ思う 君のためとて という歌からとられ、松は昔から女性の節操にたとえられ、緑が変わらない木として、今は小さい小松であるが、やがて天をはらう大木になることを願っておつけになった事と推察されております。 | |||||
・文部大臣の設立許可 | |||||
・白河第二尋常小学校長加藤友之助氏が白河町立実科高等女学校長を兼務。 | |||||
・白河町立実科高等女学校が開校 第一学年20名、第二学年18名入学。校舎は白河第二尋常小学校を使用。修業年限2年、生徒定員100名。 | |||||
大正 | 4 | ・第一回卒業式(卒業生16名) | ◇「シマの木綿長袖の着物、綿サージのエビ茶のハカマ姿。当時はモダンなものでした。制服を着たとき、女学生になったという感激でいっぱいだった。」佐藤マツ(実科2回) | ||
・稚松会発足 | |||||
5 | ・学則変更に関する件 認可 | ||||
修業年限4年、生徒定員200名、学科(修身・国語・歴史・地理・数学・理科・家事・裁縫・図画・唱歌・実業・体操) | |||||
6 | ・寄宿舎開設 白河市字道場小路37 / 2階建一棟40坪 収容人員は、生徒14名、舎監1名、女中1名の計16名。 | ・寄宿生の生活 平日ー5時起床 6:30朝食(炊事当番3名1週間交替)18:00夕食 19:30~21:00黙学 21:30就床 / 休日ー大掃除の後、19:00まで自由時間 | ロシア革命 | ||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) | 社会の動き | |||
7 | ・白河町立高等女学校と改称 | 富山県 米騒動 | |||
白河市手代町15、校地1654坪、校舎建坪425坪(大正7年9月~12年4月) | シベリア出兵宣言 | ||||
8 | ベルサイユ条約調印 | ||||
国際連盟発足・加入 | |||||
9 | ・西白河郡立白河高等女学校と改称 | ||||
◇白女の校歌は大正10年にできた。そして、翌11年3月の高女第5回卒業式に初めて公式の場で歌われた由緒ある歌である。作詞・浅野清八、作曲・田中敬一となっている。この校歌は学校が依頼したものだが、二人がどんな人なのか、どんな経緯で依頼したか記録もなく、記憶している人もいない。 | |||||
10 | ・現在の校歌ができる。 | ワシントン会議 | |||
日英米仏 四カ国条約 | |||||
・最初の校章ができる。 | ◆本校の最初の校章は、大正10年に作成されました。三種の神器の一つで女性の象徴である八咫鏡(やたのかがみ)に白河藩主松平定信の久松松平家の家紋「松山梅鉢」の梅を配し、「高女」と書かれたデザインでした。 | ||||
11 | ◆「私の時は、今の市民会館の所に校舎がありました。障子戸の学校で、三年まで通いました。一学級50人、みんなで200人でした。体操場でかけ足なんかすると、障子がビリビリ音を立てて響いたりしました。」大森テイ(大14卒) | ||||
◆「当時の服装は、入学した時は自由でしたが四年生になった時に縞模様の制服になりました。初めて冬と夏の着物が決められたのです。靴はなるべくはいてはいけないというので、みんな下駄ばきでした。体操の時間は、くくり袴で、頭には「大黒頭巾」といって、キャラコを丸く縫って縮めたのを被ってやりました。髪はみんな下へ結っていなければだめでした。」大森テイ(大14卒) | |||||
本校史年表 (二期) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) ●稚松会だより | 社会の動き | |||
大正 | 12 | ・福島県立白河高等女学校と改称 | ◇大正13年、県立白高女となり制服が決まった。冬物は薄い黄色に黒のシマ、夏物は水色と白のシマ。茶色のハカマに三本線の入ったバンドがシンボルだった。ところが生徒たちには重い布地とフトン柄のような制服はあまり評判はよくなかった。この制服を着て関西へ修学旅行に行った生徒が「どこから来た女工さん」と言われたことに乙女心が爆発。帰校後、制服の洋装化を訴えて全校生徒が校長に嘆願書を出した。 | 関東大震災 | |
白河町三十三間17番地(現旭町1丁目3番地)の新校舎(校地約1万坪/校舎建坪約千坪)に移転。 | |||||
修業年限4年、生徒定員400名。 | |||||
13 | ・寄宿舎も三十三間の新寄宿舎に移転。寄宿生30名。 | ◇新校舎の棟続きに寄宿舎が完成したのは大正12年。内部は舎監室、休憩室のほか18の和室という小ぢんまりしたもの。同寄宿舎は昭和27年に廃止されるまで、ざっと千人が入舎した。 | |||
◇寄宿舎風景・・・一部屋が八畳二間で10人が寝起きした。机とふとんを持ち込み、上級生と下級生が姉妹同然に過ごした。4年生が室長で、1年生は入舎すると、各室で怪談を聞かされて脅かされた。学校の敷地は墓場の跡で、三角頭のお化けが出る・・・という話しに、純情な乙女たちはトイレに行けずに、連れ添って行った。放課後の外出希望者は行き先と目的を”外出帳”に記して街に出た。門限5時。家に帰る以外は外泊は許されなかった。寄宿舎は学校敷地内いあったため、一般生徒は放課後立ち寄って談笑を楽しんだという。 | |||||
14 | ・各学年修学旅行 4年京阪地方(6日)/3年松島地方/2年会津地方/1年塩原(1日) | 治安維持法公布 | |||
普通選挙法公布 | |||||
15 | ・第1回音楽会開催。以降学校行事となる。 | ◆(校舎が現在地に移った年に入学)「授業らしい授業は殆どなく、毎日全校生徒は一列に並ばされて、人参の根っこだの、大根の根っこだのをとって、そんな作業のあけくれでした。何しろ校庭は、畑の跡地でしたから。始めのうちは授業がなくてとっても嬉しかったのですけど、来る日も来る日も校庭の整備で、しまいにはバテましたね。」西岡孝(昭3卒) | 金融恐慌 | ||
大正天皇没 | |||||
1 | ◆「あれは双葉山かな。おすもうさんを呼んで、地ならしをやったのを覚えています。」大森テイ(大14卒) | ||||
◆「私の修学旅行の時は、着物と洋服が半々でした。1年から学年別々で旅行がありました。1年が塩原、2年が東山、3年は松島、4年が関西。」西岡孝 | |||||
2 | ◆「当時(の部活動)はテニスしかなかったので、私もテニスをやりました。学校でお金を下さらないから、自費でどこでも試合にいっちゃったんです。」西岡孝 | 東方会議 | |||
第1回普通選挙 | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) ○会誌 ●稚松会だより | 社会の動き | |||
昭和 | 3 | ◇昭和4年、冬服は背広型に学年別のネクタイ、夏服は白のセーター服と制定された。「黒クツ下に黒グツ。髪は結ぶかおさげに制定されたが、統一されて味気なかった」鈴木千代子(昭4卒)という。入学と同時にネクタイを縫わされた背広型も真ん中にバンドが入ってバックルがあり、バスガールのような制服と不評だったようだ。 | |||
◆「寄宿舎は、三棟になって建ててあり、一寮、二寮、三寮とよんでました。各室には炊事場がついていて、洗い場と水がめ、戸棚が洗い場の上についているだけ。井戸から水を運ぶ大きなバケツが2個ありました。また部屋の中には机の本箱もあります。各室は10人から11人で、室は8畳2間で狭いため、ふとんなどは重ね敷きでした。」飯田カツ子(昭5卒) | |||||
4 | ・第1回体育デーとして各種競技会が開催。以降学校行となる。 | 世界恐慌始まる | |||
◆「寄宿生活の日課を思い出しますと、まず6時、寒い時も暑い時も起床です。ふとんを押入れに整理し、みんなで掃除、雑巾がけをすませて、7時に食事、お弁当もつめます。制服に着替えて7時登校です。授業が終わると各自室に戻ります。夕方は、6時が食事、片づけてお風呂に行きます。7時から2時間は、復習、予習です。9時に鈴がなって勉強終了。各寮人員点呼して人数を報告、ふとん敷きしてお手洗いと賑やかなことです。9時半には消灯です。」飯田カツ子(昭5卒) | |||||
5 | |||||
6 | ◆「運動会では、仮装行列をやりました。」中村雪子(昭4卒) | 満州事変 | |||
○運動会(昭和5年10月) 種目抜粋 綱引 / 150M走 / 一人一脚 / 椅子占り / スローアンドキャッチボール/昆虫採集 / カマリンスカイヤ / 縄跳び / 重心 / スクエアスプレー / 十字行進 / 五種競技 / 蟹競争 / ボール打ち / スキー競争 / ボトトレース / ユーモレスク・モーマンミュージコー / ルシアンコザックダンス | |||||
7 | 五・一五事件 | ||||
◆「運動会ではグランドピアノを校庭の真ん中に持ち出して、ピアノの伴奏でダンスをやりました。」木村シン(昭6卒) | |||||
◆「私が4年生ぐらいの時、初めてバレー部ができたのです。合宿では、毎日毎日、鼻の頭の皮が日に焼けて、何回もむける程練習をしました。」木村シン(昭6卒) | |||||
8 | ・購買部開設 | 国際連盟脱退 | |||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) | 社会の動き | |||
9 | ・創立20周年記念式典挙行 | ◆「音楽会には淡谷のり子、関種子、奥田良三、四家文子、藤原義江など一流の人が来ました。」加藤静代(昭9卒) | |||
・夏帽、徽章、学年別ネクタイ、作業服の制定 | |||||
◆「当時の寄宿舎は、北寮、中寮、南寮と呼んでいました。生徒は、中寮と南寮とに5部屋ずつ、一部屋に4~5人で、全部で60人くらいおりました。玄関の脇に舎監室、食堂と炊事場がありました。外出すると門限は9時、きびしかったですよ。家には月2回ぐらい泊まりに行けました。冬はスキーによく行きました。なべ釜1つで4年間いましたから、寄宿舎っていうと特別の姉妹みたいな感覚です。」富山タイ(昭11卒) | |||||
10 | |||||
11 | 二・二六事件 | ||||
◆「私達の時代の制服は、ジャンパースカートとジャケットでした。学年ごとに色別のネクタイで・・。ブラウスとネクタイは家庭科の教材で作りました。ネクタイの色は、1年は赤、2年はブルー、3年は緑で4年がベージュ。体操の時には、ヒダのたくさんはいった黒のブルマー、白の運動シャツで。」鈴木政(昭14卒) | |||||
12 | 日中戦争始まる | ||||
◆「高校生活では礼儀や規律は徹底して守られていました。生徒は教師に対する尊敬の念が強く、一方非常に親近感が持てるという関係であったと思います。上級生と下級生のあいさつ等、忘れたりすると気合いを入れられることも覚えています。私はバレー部でしたが、放課後の練習が楽しみでした。毎日遅くなるまで練習し、からたちの垣根のそばで大の字になって空を仰ぎながら友と語るひと時、そして県大会で勝つことができなかったくやし涙の思い出もよみがえってきます。」角田ミヨ(昭13卒) | |||||
13 | 国家総動員法公布 | ||||
14 | ・1学年150名となり、生徒定員600名となる。 | 第二次世界大戦 勃発 | |||
◆「勤労奉仕では、郡馬補充部の畑の草取りに行くとき、トラックの荷台に分割して乗り、町中を車と共に揺られながら、カーブの時など振り落とされないよう、お互いにしがみつきながら畑に行きました。作業が終わった時に頂く黒パンのおいしかったこと。」上遠野アイ(昭16卒) | |||||
15 | 日独伊三国同盟締結 | ||||
◆入学試験の筆記試験はなくなり、口答試問と体力試験により合格を決定した。正規の授業は行われず、学友会は修練隊と改称して戦争に協力し労力不足を補う為、出兵遺家族の勤労奉仕、空閑地耕作、軍馬補充部、種畜牧場の作業、学校用燃料採集等に従事した。(70年のあゆみ) | |||||
16 | |||||
◆「入学試験の時に、筆記試験がなくなって口答試問と体力検査になり、廊下を砂袋を持って走らされた記憶があります。」川瀬春子(昭20卒) | 国民学校令公布 | ||||
ハワイ・真珠湾 奇襲攻撃 | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) | 社会の動き | |||
◇勤労奉仕は、主要国道県道に砂利置場を設けるため砂利採取、運搬作業で始まった。阿武隈川の河原から砂利を取り、約1200メートルを荷車や風呂敷包みにして運ぶ作業はかなりの重労働だった。 | |||||
17 | |||||
◆「射撃訓練もやりました。とにかく勤労奉仕が多く、敵国語である英語の授業はあまりやらないで、別な授業をした記憶があります。」長尾モン(昭17卒) | |||||
◇「防空壕堀りもしました。カラタチの土手の周りに数カ所にわたって設置しました。全校生徒600人が1人ももれなく退避できるよう連日訓練が行われました。」片野タカ子(昭19卒) | |||||
18 | 大東亜会議 | ||||
◇「稲刈りの手伝いに銀シャリのおにぎりが出され、なんともおいしかった記憶が今でも鮮明に残っています。昼休みにはイナゴ取りもしましたし、合唱もしました。」吉川久子(昭19卒) | 学徒出陣 | ||||
◆「私達4年生の時に戦争が激しくなり、学徒動員令が下りまして、確か夜中の11時すぎに校庭にならんで、涙ながらに別れを告げて、町中を歌いながら駅へ向かいました。配属先は神奈川県の川崎市で、東芝の通信機製作に従事しました。」根本信子(昭20卒) | |||||
19 | ・国家総動員法により、3年生は保土ヶ谷化学郡山工場に、四年生は川崎市の東芝小向工場に配属される。 | 学童集団疎開はじまる | |||
東京大空襲 | |||||
◇昭和20年4月12日、直撃弾、爆風などで(保土ヶ谷化学郡山)工場内は次々と犠牲者が続出した。「逃げたが、白女の防空壕に到着しないうちにB29の爆撃が始まった。急いで近くの防空壕に飛び込んだ。壕内は超満員だった。まるで重ねモチだった。身体全体が押しつぶされ、身動きひとつできなかった。失神しそうだった。遠くで女子学生が、”あたしの隣の人が死んでいるわ。あたしを防空壕に入れて”と叫んでいる声が聞こえたが、どうすることもできない。(中略)いつの間にか防空壕の外に弾き出されていた。逃げようと思うばかりで手足はシビレたまま。イザリのようにして前へ進む。ようやく血が通いはじめ、走って逃げ出した。気がついたときは、阿武隈川対岸の村でした。」大橋クニ(昭21卒) | |||||
20 | ・米軍機の爆撃を受け、郡山工場で14名が犠牲者となる。 | 米軍 沖縄に上陸 | |||
広島・長崎に 原爆投下 | |||||
・白女生が勤労奉仕する川崎市東芝小向工場が空襲にあう。 | ◇昭和20年4月15日、午後十時過ぎ、川崎大空襲。「防空壕に避難したが、”多摩川へ逃げろ””壕から出ろ”の声にあちこちから逃げ出した。私は足が震えて前にでない。やっとの思いで川べりに出る。対岸も後ろの工場も火の海。轟音がやんでから友を探す。”白女”と叫び合いながら、夜の白むころ全員が無事集合した。」郡司重子(昭20卒) | ポツダム宣言受諾 | |||
第二次世界大戦 終戦 | |||||
21 | 日本国憲法公布 | ||||
・修業年限5年の高等女学校として許可され、同時に併設中学校を設置し、第三学年以下の在学生をこれに所属させる。 | |||||
22 | 教育基本法・学校教育法公布 6/3/3/制開始 | ||||
・PTA誕生 |
本校史年表 (三期) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌より抜粋 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞)より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 | 社会の動き | |||
昭和 | 23 | ・学制改革により福島県立白河女子高等学校と改称。 | |||
・生徒会誕生 | |||||
・新校章誕生 | |||||
・青少年赤十字に全生徒加連 | |||||
24 | ・卒業生 併設新制中学卒164名、高女5年卒91名、高校卒16名、別科卒5名 | 中華人民共和国 成立 | |||
25 | 朝鮮戦争勃発 | ||||
26 | ・新入生歓迎ダンスパーティーはじまる。 | サンフランシスコ平和条約調印 | |||
27 | ・プール 完成 | ◇白女の陸上競技部が県内に知られるようになったのは発足から6年後の27年。この年白女は県高体連で初優勝した。この年の快挙は白女のお家芸となった400Mリレーだろう。 | 民間ラジオ放送開始 | ||
・寄宿舎を改造移転し、跡地は図書館となる。 | |||||
28 | ・創立40周年記念式典 | NHKテレビ放送 開始 | |||
・別科廃止 | |||||
29 | 防衛庁・自衛隊発足 | ||||
30 | ◆「新入生歓迎ダンスパーティーは、昭和20年代に始まっていましたが、昭和30年代に入り、クラス対抗球技大会、文化祭などの行事が始まりました。クラス対抗の中に球技だけでなく合唱も入れようということになって。合唱祭がその後からできました。」宍戸初子(旧職員) | ||||
31 | ・被服室 竣工 | 日本 国連に参加 | |||
32 | ・世界JRC大会(インド)に日本代表で本校生徒参加 | ||||
・JRC国際親善交歓会が本校にて開催。アジア各国留学生が集う。 | |||||
33 | ・食物教室 竣工 | ||||
・ユネスコ共同研究指定校となる | |||||
34 | 皇太子ご成婚 | ||||
35 | ●「徒歩通学の、しかも自宅から三、四十分かかる私は自転車通学生にいつも追い越され遅刻スレスレ。仲間と一緒に校門近くをかけ足したのを思い出します。校庭の周囲はからたちの木が植えられていて、何カ所か通路ができてました。先輩達が作った近道でそこも結構使わせてもらいました。」佐々木玲子(昭37卒) | カラーテレビ放送 開始 | |||
36 | |||||
37 | |||||
38 | ・体育館 改築工事 竣工 | ケネディ大統領 暗殺 | |||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 より抜粋 ◇高校風土記 (昭和49年 朝日新聞)より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 ○生徒会誌 からたち より抜粋 | 社会の動き | |||
昭和 | 39 | ・新校舎 竣工 | 東京オリンピック 開催 | ||
40 | ・創立50周年記念式典 | 米国 ベトナム侵攻 | |||
・プラネタリウム 竣工 | ◆「からたちの垣根が取り払われブロック塀になったのは、昭和42年頃です。校庭の南側の住宅造成が進み、造成地が校地より高いので、雨の日などからたちの土手を越えて、水がどんどん校庭に入ってビシャビシャになるので、からたちを抜いて側溝とブロック塀を作ったのです。時代には勝てなかったということです。」石井重衛(当時の校長) | ||||
・生徒定員 1、485名 | |||||
41 | ビートルズ来日 | ||||
42 | ・音楽室 新築 | ||||
43 | ◇白女に陸上競技部ができたのは昭和21年。ハイライトはなんといっても44年の国体(長崎)で走高跳びの遠藤和子(昭和46卒)が優勝したことだろう。 | ||||
44 | ・新プール 落成式 | アポロ11号 月面着陸成功 | |||
・図書館 美術室 完成 | ○「私達人形劇班(JRCの一部に属している)は、最初に脚本の選択からとりかかる。次に人形製作、セリフの練習にはいり、テープレコーダーに吹き込む。これが終わってから人形の動かし方の練習、半数の者はバックセット等の製作に取りかかる。」 からたち第1号 JRC委員会人形劇班活動報告(昭和44) | 核拡散防止条約調印 | |||
・国体(長崎) 陸上競技走高跳び 優勝 (遠藤和子) | |||||
45 | ・JRC東南アジア18ヶ国の日本代表で本校生徒参加 | 大阪万博開催 | |||
・弓道場 完成 | ◇(陸上競技部)は県高体で41年、42年に連続優勝したのを皮切りに44~49年まで6連勝。通算9回の優勝と白女の黄金時代を現出した。選手も遠藤和子(昭46卒)をはじめ、100,200、400Mで県高校記録保持者でインターハイ200M2位の岡部晃子(昭51卒)とキラ星のように輩出した。 | ||||
46 | |||||
47 | ・家庭科室・視聴覚室・社会科準備室・書道室・簿記室 竣工 | ○「地学クラブは、プラネタリウムを使っての天体観測が最大の活動です。市内の小学生や看護婦さん、白高生が訪れた時はもちろんきれいに掃除してこのプラネタリウムを可愛がり、活用しました。」地学クラブ(昭46) | 沖縄 日本復帰 | ||
札幌冬季オリンピック開催 | |||||
48 | ◇バレーボール部は昭和5年ごろから発足したらしい。戦前、戦後を通じて県内で優勝したのは昭和48年が初めて。同年の国体予選にも優勝をかざった。そして50年には東北大会でも優勝。県内一流のチームとなった。 | オイルショック | |||
49 | ・創立60周年記念式典 | ◇(戦時中勤労動員されたため、形ばかりの卒業式ではがき大の卒業証書をもらっただけの白女生のために催された)29年ぶりの卒業式は、昭和49年11月23日に白女体育館で行われた。東芝小向工場の当時の職員ら三人が来賓として出席し、百余人の動員乙女が参列した。あわただしく粗末だった川崎の卒業式と比べ、平和で華やかな卒業式だった。彼女たちの中の戦争は、これでようやく消えたようだ。 | |||
50 | ・生徒定員 1、231名 | ベトナム戦争終結 | |||
・情操室(和室) 完成 | ◇快晴の50年4月12日、郡山商工会議所会館ホールで当時学徒動員されていた約150人が出席して「保土谷化学学徒戦没者三十周年慰霊祭」が開かれた。白女を含む犠牲者の霊を祭る末広神社に5本のモッコクの木が植樹された。郡山市内の如宝寺には犠牲者30人の名前を列記した供養塔も建てられた。 | ||||
51 | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 より抜粋 ○生徒会誌 からたち より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 | 社会の動き | |||
○「公開文化祭、白女生待望の”フェスティバルファイヤー”は、午後5時頃校庭で始まった。フォークソングの輪が作られ、最初はマイムマイムで始まった。火の神に扮した校長先生と火の子に扮した生徒会執行部4人がトーチを掲げて登場、誓いの言葉の後、点火、再びフォークダンスが始まった。」からたち編集委員(昭52) | |||||
昭和 | 52 | ||||
53 | ◆「昭和53年、私が高校3年生のとき、福島県でインターハイの全国大会が開催されました。インターハイの地元開催に向け、「全国大会優勝」を目標に、1年生のときにはバレー部員のうち6人が柴山先生の自宅から学校に通い、2年生になってから学校前の一軒家を借りて学年全員での合宿生活が始まりました。」川瀬光子(昭54卒) | 成田空港開港 | |||
宮城県沖地震発生 | |||||
54 | ・運動部 部室 新築工事 | 国公立大学共通一次試験 始まる | |||
55 | ◆「(ソフトボール部は)昭和55年からの10年間で東北大会出場8回(内3回優勝)、全国大会出場3回など大活躍してくれました。特に昭和54年の新人大会から翌年県総体までの1年間は、県内で一度も負けることなく35連勝できたことが強く印象に残っています。」國分洋(旧職員) | イラン・イラク戦争 | |||
モスクワオリンピックボイコット | |||||
56 | ・新体育館 竣工 | ||||
○「全国大会の出場権を得るための県大会に比べると、インターハイ(体操競技)ではリラックスして演技することができました。」小林光代(昭58卒) | |||||
57 | ・テニスコート3面(豊年地内) 完成 | 東北新幹線・上越新幹線開通 | |||
58 | ○「からたち祭1日目の運動会の最後に行われた”着せ替え人間”は、各クラスの知恵、ユーモアが結集され、みんなの笑いを誘いました。S先生の逃げた女房、W先生のバレリーナなどをはじめとして、美しく着飾った先生方が一列にならぶと、校庭中が大騒ぎになりました。」からたち編集委員(昭58) | 大韓航空機撃墜事件 | |||
グリコ事件 | |||||
59 | ・東棟(音楽室・進路室・教育相談室・会議室など) 増築工事 | ||||
○「新聞委員会は生徒会と一緒の部室で活動しています。白女の新聞の歴史は古いもので、今では150号を越えました。学期末にそれぞれ1回ずつ発行しているので、50年になります。今年度、創立70周年の記念式典が行われましたが、我が新聞委員会では特集号を発行しました。次回も私たちは、〆切と戦ってがんばります!」新聞委員会(昭60) | |||||
60 | ・創立70周年記念式典 | NTT発足 | |||
・創立70周年記念像 乙女の像「想」 除幕式 | 日航ジャンボ機御巣鷹山に墜落 | ||||
61 | ソ連 チェルノブイリ原発事故 | ||||
◆塙町から白女には水郡線1番列車(AM6時過ぎ発)で通学しなければならず、特に母親は非常に大変でしたので、塙町、矢祭町のご支援、福島交通のご理解により、白女バス(お嬢バス)は、昭和61年4月より運行を開始しました。貸切バス行為であれば運行可能、添乗員がいなければいけない規則があるため、ガイドさんが座る所に制服を脱いでガイドのふりをした生徒が座って、運行が開始されました。」(お嬢バス初代会長)星稔男 | |||||
62 | 国鉄民営化 | ||||
青函トンネル開通 | |||||
63 | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 より抜粋 ○生徒会誌 からたち より抜粋 ◇P新聞いしずえ より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 | 社会の動き | |||
消費税(3%)実施 | |||||
平成 | 元 | 中国 天安門事件 | |||
○「同じく金賞 白河女子高校・・・・涙がボロボロでて、みんなで喜びあいました。昨年の東北大会では金賞に入った学校と同点だったのに、審査員5名のうち3人がもう一方の学校のほうに高く点をつけたので、全国大会に行けませんでした。今年こそは、と三年の先輩たちを中心に、一生懸命がんばった結果、東北大会で金賞、全国大会で銀賞という素晴らしい成績をとることができました。」合唱部(平4) | 東西ドイツ 統一 | ||||
湾岸戦争 | |||||
◇毎月第二土曜日 休業日 | ソビエト連邦消滅 | ||||
5 | ・新弓道場 竣工 | ○「①鐘がなったら注文しない。②自分のパンは確かめてから食べる。③牛乳ビンは洗ってから返す。という基本的なマナーを守ってほしいです。」購買委員会(平5) | Jリーグ 開幕 | ||
6 | ・創立80周年記念式典 | EU発足 | |||
・校歌碑 寄付受納 | ○「部誌は年1回”素顔”を出しています。これは、今年で49冊目。生徒会誌からたちより歴史があるのです。」文芸部(平6) | ||||
・南棟(第二校舎) 改造工事 竣工 | |||||
・図書館閲覧室・書庫整備/記念誌(写真集)発行 | ◇「ある新聞記事に”(国体)少年少女ソフトボール競技、ベスト8目標”と書かれていました。私たちは抽選の結果、1回戦は不戦勝で既にベスト8は決まっていました。もう負けてもいいってことなのだろうか?そのほんの数行の記事が私たちの眠っていた”闘争心”を目覚めさせました。」遠藤美穂(平8卒) | ||||
7 | ・北校舎(第一校舎) 改造工事 竣工 | 阪神・淡路大震災 | |||
地下鉄サリン事件 | |||||
◆共学化にむけた取り組み 校歌は、男女の区別をしていないのでそのまま歌い継ぐ。/校章は、これまでの校章の「女」だけを「旭」に変える。/制服については男女とも森英恵デザインで、濃紺ベースとする清楚で上品なイメージとすることで決定する。/体操用ジャージも新調する。全国大会でも目立つようなチェックを取り入れる。後に亀ジャーの愛称で親しまれる。/甲陵高校と協力高の締結をする。大胆な学校改革と驚異的な進学実績を誇る甲陵高校に指導のノウハウを学び、さらなる大学進学率の向上を目指す。/男子の部活動を整備する。/男子トイレと更衣室を新設する。/格議場を建設する。/サッカーゴールを設置する。/野球練習場を整地し、バッティンングゲージを設置する。 他 | |||||
8 | ・山梨県 甲陵高校との協力校 締結式 | ||||
・情報処理室 改造工事 竣工 | |||||
◇「(インターハイのソフトテニス競技に出場するまでには)体中の感覚がなくなり、目の前がだんだん白くなっていく。そんな倒れそうな練習ばかりが続く毎日でした。こうして私達は、自分で自分を追い詰め、必死に這い上がって力をつけていきました。」猪俣明子(平9卒) | |||||
9 | ・校庭整備工事 プール改修工事 竣工 | 消費税5%に引き上げ | |||
・校名及び校章パネル 取り替え | ◆最後の白女生 国公立・私立大に過去最高の現役合格 国公立のべ52名(福島大学9名、宇都宮大・茨城大・山形大各5名、埼玉大3名、岩手大・宮教大・筑波大・千葉大・県立医大各2名、東北大・秋田大・東学芸大・上教大・富山大・富医薬大・信州大・静岡大・奈良女子大・秋田県立大・会津大・茨城県医大・都留文大・姫路工業大・島根医大各1)、 私立大のべ237名 他 | 香港 中国に変換 | |||
本校史年表 (四期) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 より抜粋 ○生徒会誌 からたち より抜粋 ◇P新聞いしずえ より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 | 社会の動き | |||
◆「本校は平成9年、白河女子高校が男女共学化、1期生360名(男子110名・女子250名)が新たな制服をまとい入学いたしました。入学当時の白河旭高校は、当然の事ながら2・3年生は女子高時代の先輩ですので、男子は全体の一割程でした。”とまどい”。この一点が男子生徒達の当時の姿でしたので、男子生徒だけの学年集会を二度程実施しました。中身は、新しい歴史を築く男子生徒としての立場、やるべきことについて学年の先生方からのアドバイスでした。とても和やかに展開し、その後ヤル気を出してきた男子生徒の姿に幾度となく感動を覚えたものでした。」井上忠道(一期生学年主任) | |||||
平成 | 9 | ・校名変更、福島県立白河旭高等学校となり、男女共学になる | |||
・白河旭高校 後援会発足 | |||||
・旧白河測候跡地及びその関係施設を引き継ぐ | |||||
◆「野球部に最初に集まったのは10名。他野球部からボール、バット等お古の道具を寄付していただき、何とか活動を開始しました。(中略)本当に野球が大好きで、びっくりするほどの素直さでがんばり続ける彼らに、私自身どれだけ励まされたことか。2年目の夏、考査で練習が休みの夕方6時頃、グランドでひとり黙々と草刈りする大人の姿。それは当時の監督、小松俊夫さんでした。〝野球は楽しくやろう。頼まれてする練習ならしなくていい〟。小松監督はよくグランドで話しをしていましたが、こんな日常の見えない行動と言葉の端々から伝わる彼の男らしさが、先輩のいない一期生たちに『硬式野球部とは何か』を教えていきました。」鑓水実(創部野球部監督) | |||||
10 | ・後援会よりハナミズキ植栽/学校案内標識寄付受納 | 長野冬季オリンピック開催 | |||
・白河旭高等学校、第一回卒業式挙行 卒業生378名 | |||||
・LL教室、更衣シャワー室、和室 改修 | |||||
・新図書館 完成 | ◇「私達三年生は”最後の白女生”と言われながら、旭高生として卒業しますが、私は白河女子高校と書かれた卒業証書を手に、白河女子高生として卒業したいと思っています。」小林真梨子(平11卒) | ||||
◆「練習以前に、まずはお借りしたグラウンドを自分たちで草を刈り、固い土を耕すところから始めました。毎日日付が変わるまで練習をし、耐えられずに去っていった部員もいました。2年になり新入部員も入部して、ようやく野球ができる環境が整いましたが、試合をする度に負ける日々が続きました。時にはくじけそうになりましたが、一生懸命練習をしました。」五十嵐正史(平12卒) | |||||
11 | ・旧白河測候所跡地造成工事竣工 | ||||
・防球ネット 工事竣工 | |||||
◇「私たちは旭高一期生として入学し、周囲からも大きな期待が寄せられました。様々な行事を通して白女の伝統を肌で感じ、それを模倣するのではなく、模索することで自分たちの方向を定めてきたと思います。このような節目の時期に白河旭高校で過ごせたことを誇りに思います。」斎藤舞美(平12卒) | |||||
12 | ・武道場 竣工 | ○「一年間の活動で一番印象深かったのは、山岳部に男子が入部して3年目にもかかわらず、県大会で最優秀パーティーに選ばれ、インターハイ出場を成し遂げたことです。」山岳部 | 三宅島噴火 | ||
シドニーオリンピックで高橋尚子が女子マラソンで優勝 | |||||
◇「我々、男子バレーボール部は創部2年目となり部員の数も増え、活気が出てきました。県南新人戦では、初出場にもかかわらず、優勝という快挙を成し遂げることができました。しかし、高体連では自分達の力が発揮できず、己の未熟さを知らされました。我がバレー部の個人の能力は高い!張り詰めた戦いを体験し、チームとしてまとまれば、どこにも負けないバレー部なるはずだ!」木村学(平13卒) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 より抜粋 ○生徒会誌 からたち より抜粋 ◇P新聞いしずえ より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 | 社会の動き | |||
平成 | 13 | ●「私たち科学部は、環境の浄化についての研究を行っていたが、南湖のような大規模な環境の浄化の研究とは違っていた。そこで、私たちは新しい浄化方法を見つけ出さなければならなかった。その条件は、低予算、易維持管理、環境への無悪影響の三つだ。その条件を満たしたものが炭素繊維だった。我々は”南湖公園を考える会”の協力をもとに研究データ取得用ミニプラントを設置した。」研究成果をまとめた論文で日本学生科学賞県コンクール 県知事賞受賞(平13) | 米で同時多発テロ | ||
●「”からたち祭”が6年ぶりに開催されました。大規模校舎改築のため前回見送られたため、男女共学になって初めての文化祭となりました。市内を仮装行列でパレードしたり、校内で27の各クラス、18の部活動や委員会の展示や発表を公開しました。」(平13) | |||||
14 | ・募集定員320名(8学級)となる | 北朝鮮拉致被害者帰国 | |||
・プール更衣室 竣工 | ◇「今年度から学校での土曜日の授業がなくなりました。子どもたちの将来のために、”ゆとりの生活の中で生きる力を育む”ことが必要であるとの考えに基づくものです」畠山煕一郎(14年度校長) | 日韓ワールドカップ 開催 | |||
○「〝今年の1年生の遠足は、りんどう湖〟と聞いた瞬間、自分の耳を疑った。まさかこの年で牛やポニーと戯れるなんて・・。だが現地に行ってみると、牛の乳搾りに快感を覚える人、ソフトクリームに幸せを感じる人、なぜか牧場にいるのにバズーカにはまる人と、みんな程よく弾けて楽しんだ。バーベキューでは、日頃味わえないひと味違った食事ができ、笑顔が絶えなかった。」遠足記より | |||||
15 | |||||
◇「書道の良さは、白と黒の中でのバランスを表現する楽しみにあり、そこに興味深いものがあります。」佐藤咲(平16卒) | |||||
○「ブラジルに交換留学している鈴木陽子さんから、ブラジルは貧富の差が激しく、着る服さえ困る人もいるのでクリスマスプレゼントとして古着を送ってくれえないか、という呼びかけがあり、インターアクト部やJRC委員会とともに、全校生徒に呼びかけ古着と文房具の寄付を集めました。」生徒会 | |||||
16 | ・創立90周年記念式典 挙行 | 愛知万博開催 | |||
・稚松会が「歴史資料展示ケース」を学校に寄贈、除幕式を行う | アテネオリンピック | ||||
◇「カメジャーでのダンスパーティーは今年で最後となりました。来年からは新ジャージだけのダンスパーティーになってしまいます。それはそれで新時代の象徴になるのでしょうが、何か物足りない気もします。」熊田英希(平17卒) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 より抜粋 ○生徒会誌 からたち より抜粋 ◇P新聞いしずえ より抜粋 ●稚松会だより より抜粋 | 社会の動き | |||
平成 | 17 | ・募集定員270名(7学級)となる | ●「バドミントン男子シングルス優勝決定戦は、1時間以上かかる長い試合でした。プレーしながら自分では勝てる気が全くせず、ただ目の前のシャトルを追い続けました。3セット目のファイナル、長い勝負が終わり、気がつくと優勝、無意識に仲間の方にガッツポーズをしていました。」池田智明(平18卒) | ||
●「静岡国体(水泳競技)では、普段ライバルとして競いあってきた選手たちと、仲間として出場したことがとてもうれしくて、全員で上位入賞を誓いあいました。」内山和也(平18卒) | |||||
18 | WBCで王ジャパン初代世界一 | ||||
●「インターハイのリベンジの舞台と位置づけた国体(少年B走高跳)へ懸ける思いは熱く、良い意味での緊張感をもって試合に臨みました。雨という悪条件でしたが、逆に雨の音でジャンプに集中することができ、着実にバーの高さを上げていくことができました。結果、大会新記録で初の全国制覇を成し遂げることができました。」佐藤傭兵(平19卒) | |||||
19 | ◇「(カナダホームステイ研修で)始めは、自分の英語が通じるのか不安でしたが、どんどん話していくうちに、教科書に載っているようなきっちりとした文じゃなくてもいいんだ、と自信がもてるようになりました。」佐藤静香(平20卒) | ||||
郵政民営化 | |||||
●「国体陸上競技少年男子B200Mは、昨年の中学3年の時にも出場し、惨敗した種目でした。高校1年と中学3年で構成されるこの種目は、高校生の意地のようなものがあり、今回の私にもその思いがあり、「昨年負けた屈辱を晴らす。」という思いで臨みました。試合では気持ちだけは誰よりも勝っていたと思います。その結果、優勝し最高の目標を達成できました。」田嶋和也(平21卒) | 中越沖地震 | ||||
20 | ・募集定員240名(6学級)となる | 北京オリンピック | |||
○「右も左も顔見知り。半ば貸し切り状態の遊園地。そんな体験は今回の遠足で最後だと思います。正直乗り気ではなかった遊園地も、着いてみるとその雰囲気に飲み込まれ、結局疲れるほど乗り物に乗りました。遠足が終わったら受験かぁ、と思いながらペダルを漕いで、受験が終わったら卒業かぁ、と思いながら絶叫していました。」小椋佳奈(平21卒) | リーマンショック | ||||
21 | 米国初の黒人大統領誕生 | ||||
◇「僕は今年の夏、11日間のオーストラリアホームステイ研修に参加しました。現地に到着した初日は、動物園や市内を見学し、二日目にホストファミリーと対面し、それ以降一緒に過ごしました。この研修を通して、英語だけではなく他国の文化や自然も学ぶことができました。」加藤賢大(平22卒) | |||||
裁判員制度開始 | |||||
22 | ◇●「夏休みにJRC活動の一環としてフィリピンへ研修に行きました。そこでは、貧しい地域で暮らす人々への給食ボランティアを行いました。このとき私は教育格差の問題に注目していたので、この機会を利用して日本とフィリピンの小学生を対象にアンケートを行いました。その回答をより多くの人に伝えたいと考え、論文にまとめ朝河貫一賞に応募し、最優秀賞を受賞しました。」坂本美波(平22卒) | ||||
探査機「はやぶさ」帰還 | |||||
本校史 | ●稚松会だより より抜粋 ◇P新聞いしずえ より抜粋 △スポーツニッポン福島版 より抜粋 | 社会の動き | |||
平成 | 23 | ・東日本大震災により第一体育館が使用不能になるなど、大きな被害を被った。生徒、教職員の被害なし | ◇「この震災を、私は自宅で母と経験しました。福島県は地盤が強いと聞いていましたし、いつもの様になんとなく母と共に揺れ始めたテレビをおさえ立ち上がっていました。揺れが収まり、部屋を見渡すと全ての家具は動き、家中のものが散乱し、歩ける場所もありませんでした。電気は止まり、水道は出ず初めての経験。今までの生活がどれだけ幸せだったのかと心から思いました。」岩科昌志(平23卒) | 東日本大震災 | |
・募集定員200名(5学級)となる | サッカー女子W杯優勝 | ||||
【東日本大震災】 | ●「今年のダンスパーティーは、校庭の放射線濃度が高かったため、夏に延期して行われました。夏の太陽よりも輝いていたみんなの笑顔が印象的でした。」蜂谷哲朗(平23卒) | ||||
第二体育館緊急災害工事 竣工 | 地上デジタル放送完全移行 | ||||
グラウンド擁壁・防球ネット緊急災害工事 竣工 | ◇「女子バスケットボール部はインターハイに行くために、まずは服装、あいさつ、生活態度を見直し改善していこうと、意識を高く持ち続けてきました。東日本大震災により学校の体育館が使用できず、近くの小学校や市民体育館などの施設にお世話になりながら練習を重ねてきました。」塩澤奈津美・伊藤早耶香(平23卒) | ||||
放射線低減対策工事 (花壇表土入替、側溝洗浄、雨樋付近表土入替など) | |||||
◇「インターハイでは途中で失速してしまい、予選通過できず、悔しい思いをしたので、国体で絶対にリベンジするという気持ちと、震災や原発という暗いニュースのなか、少しでも明るい話題をという思いから、『ふくしま』を胸に刻まれたユニフォームは重く感じました。国体では集団にくらいつき、4位入賞することができました。」管野智文(平23卒) | |||||
◇「東日本大震災があり、一ヶ月以上納得のいく練習ができず、不安を募らせていました。しかし仲間たちと、わずかながらの時間を集中しお互いに励ましあうことで、様々な困難を乗り越えることができました。この(県高体)個人優勝はみんなで勝ち取った優勝です。」河内直樹(平23卒) | |||||
24 | 【東日本大震災】 | △「(女子バスケットボール部は、プレーヤー7人でウインターカップ県優勝)7人だと練習試合でも全員Aチームで試合に出ずっぱり。初めはきつかったですが、今は当たり前で違和感はないです。」井澤由佳(平24卒) | |||
図書棟(1F図書館/2F美術室)解体工事 竣工 | 東京スカイツリー開業 | ||||
格技場わき囲障災害復旧工事 竣工 | ◇「団体でのインターハイの出場を決めたとき、本当に嬉しくて、私はみんなといっしょにうれし涙を流しました。それまでの道のりは本当に苦しいものでした。試合をやっても勝てない日々が続き、その焦りでチームがバラバラになり、部長を務めていた私はどうすればよいか悩みました。」五十嵐隆光(平24卒) | ||||
ロンドン五輪 | |||||
山中伸弥ノーベル賞受賞 | |||||
25 | ・募集定員200名(5学級)となる | ●「美術部では、夏休みほぼ毎日文化祭のアーチ製作に取り組みました。何枚もの板を分割し、つなげて作る巨大なアーチは下絵の段階で大変な苦労がありました。アーチの設置は文化祭が数日後にせまる雨の中の作業でした。途中雷が鳴り、作業を中断しながら作りました。」今井彩希(現3年生) | |||
【東日本大震災】 | |||||
北校舎及び特別教室棟(図書館/美術室)竣工 | |||||
26 | ・創立100周年記念式典 挙行 | 消費税8%に | |||
・100周年記念式典/講演会 記念事業(校門設置・記念誌) |