本校史年表 (一期) | |||||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 *会員名簿 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) |
社会の動き | |||
大正 | 3 | ・白河第二尋常小学校長加藤友之助氏 修業年限2年の実科高等女学校を第二小学校に附設する件の草案を町長に提出。 | 第一次世界大戦 勃発 |
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・白河町会に提出された設立の案件を満場一致で原案可決 | |||||
*【稚松会名の由来】大正3年、本校の前身であった白河実科高等女学校が創立された年、在校生の親睦会に初代校長であった加藤友之助先生が下記の歌から稚松会という名称をつけられました。 卒業生の少なかった間は在校生との連合で親睦会を催していたが、しだいに卒業生の数も増え同窓会が分離してからも引き続きこの名称がよびならわされ、今日に及びました。 国文学に造詣の深い加藤友之助先生が、白河城主松平楽翁公の御歌の 稚松原 朝夕つゆの やしのうも 国をぞ思う 君のためとて という歌からとられ、松は昔から女性の節操にたとえられ、緑が変わらない木として、今は小さい小松であるが、やがて天をはらう大木になることを願っておつけになった事と推察されております。 |
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・文部大臣の設立許可 | |||||
・白河第二尋常小学校長加藤友之助氏が白河町立実科高等女学校長を兼務。 | |||||
・白河町立実科高等女学校が開校 第一学年20名、第二学年18名入学。校舎は白河第二尋常小学校を使用。修業年限2年、生徒定員100名。 |
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大正 | 4 | ・第一回卒業式(卒業生16名) | ◇「シマの木綿長袖の着物、綿サージのエビ茶のハカマ姿。当時はモダンなものでした。制服を着たとき、女学生になったという感激でいっぱいだった。」佐藤マツ(実科2回) | ||
・稚松会発足 | |||||
5 | ・学則変更に関する件 認可 | ||||
修業年限4年、生徒定員200名、学科(修身・国語・歴史・地理・数学・理科・家事・裁縫・図画・唱歌・実業・体操) | |||||
6 | ・寄宿舎開設 白河市字道場小路37 / 2階建一棟40坪 収容人員は、生徒14名、舎監1名、女中1名の計16名。 |
・寄宿生の生活 平日ー5時起床 6:30朝食(炊事当番3名1週間交替)18:00夕食 19:30~21:00黙学 21:30就床 / 休日ー大掃除の後、19:00まで自由時間 |
ロシア革命 | ||
本校史 | ◆70・80・90周年記念誌 ◇高校風土記(昭和49年 朝日新聞) |
社会の動き | |||
7 | ・白河町立高等女学校と改称 | 富山県 米騒動 | |||
白河市手代町15、校地1654坪、校舎建坪425坪(大正7年9月~12年4月) | シベリア出兵宣言 | ||||
8 | ベルサイユ条約調印 | ||||
国際連盟発足・加入 | |||||
9 | ・西白河郡立白河高等女学校と改称 | ||||
◇白女の校歌は大正10年にできた。そして、翌11年3月の高女第5回卒業式に初めて公式の場で歌われた由緒ある歌である。作詞・浅野清八、作曲・田中敬一となっている。この校歌は学校が依頼したものだが、二人がどんな人なのか、どんな経緯で依頼したか記録もなく、記憶している人もいない。 | |||||
10 | ・現在の校歌ができる。 | ワシントン会議 | |||
日英米仏 四カ国条約 |
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・最初の校章ができる。 | ◆本校の最初の校章は、大正10年に作成されました。三種の神器の一つで女性の象徴である八咫鏡(やたのかがみ)に白河藩主松平定信の久松松平家の家紋「松山梅鉢」の梅を配し、「高女」と書かれたデザインでした。 | ||||
11 | ◆「私の時は、今の市民会館の所に校舎がありました。障子戸の学校で、三年まで通いました。一学級50人、みんなで200人でした。体操場でかけ足なんかすると、障子がビリビリ音を立てて響いたりしました。」大森テイ(大14卒) | ||||
◆「当時の服装は、入学した時は自由でしたが四年生になった時に縞模様の制服になりました。初めて冬と夏の着物が決められたのです。靴はなるべくはいてはいけないというので、みんな下駄ばきでした。体操の時間は、くくり袴で、頭には「大黒頭巾」といって、キャラコを丸く縫って縮めたのを被ってやりました。髪はみんな下へ結っていなければだめでした。」大森テイ(大14卒) | |||||